卒論もっと焼く

こんにちは。卒論を焼きにきました。

前回までは白磁の観音像を時代別に見ていこうかな〜なんて思っていましたが、50点ほど並べても一向に傾向が掴めず、特に造形的な変化が見られなかったので諦めます。ションボリ。

 

代わりに、最近手に入れた参考文献で、マリア観音白衣観音などについて触れている部分を紹介してみようかと思います。

まずは速水侑氏の『観音信仰』。

『観音経』に示す功徳は、七難を除き、三毒を離れ、二求を満足するというのである。七難とは、・・・二求とは子なき者が、望みに応じてあるいは男子あるいは女子を産むことができるというので、人力のいかんともすることのできない産児を授け、しかも欲するところに従って男女いずれの子をも設け、かつ福徳、智慧の具わる男子、端正で愛敬のある女子を授けることによって、その他の財宝、地位、目的のごときは当然与えらるべきことを示したのである。

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 とのことです。子宝を授ける現世利益の面が観音経に明記されていることがわかりました。また、この観音についての記載がある法華経について、

法華経』は古から支那に六訳あり、三存三闕といわれる。これは五鳳二年すなわち二五五年に訳されたという。しかしこの経は三昧経と称するのであるから、はたして今の『法華経』と同一であったか否、今その伝を失っているから何とも決定し難い。

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姚秦の弘始八年(四〇六)羅什が新たに『法華』を訳出するや、道融、僧叡、慧観、曇影らを始めとし、『法華』の研究がはなはだ盛んとなり、支那の南北を問わず、あらそってこれを講じ、終には北斉の慧文より南岳の慧思を経、隋代には天台の智者大師に至り、ここに『法華』をもって一宗を樹立したことは人の能く知るところであり、観音の信仰は遍ねく一代に流布したのである。

とあります。406年の鳩摩羅什による『法華経』訳によって観音信仰は中国全土に広まっていること、また観音経もまた全土に広がっており、様々な形での現世利益を求めた観音信仰が中国全土に浸透したことがわかりますね。

そういった観音信仰の広がりの中で、「二求」に強い観音というものも求められたのではないか、という考察が可能ではないでしょうか。

 

なんとその通り、「送子観音」という観音が存在するのです。

 若桑みどり氏の『聖母像の到来』によると、

継嗣子を産み育てることが、中国人にとって家庭生活の、ひいては人生の目的であったと永尾龍造氏はいう。そのために女性は懸命に諸々の神仏に祈願し、神仏だけでは足れりとせず、多種多様な俗信仰に向かった。祈願の対象たる神々のうち最も信仰されたのが娘娘廟に祀られている娘娘神である。・・・中国各地で、娘娘神に祈る場合、それを白衣大士に祈るといい、あるいは白衣観音、あるいは菩薩に祈るという風習がある。つまりすでに仏教徒の「習合」がおこっていたということになる。・・・

ところで、彌永氏もまた、この白衣の観音像と同じ型の女神像は、「中国では娘娘神と習合し(あるいは混同されて)「送子娘娘」、すなわち子宝を授ける女神として信仰されていた」と書いている(図220)。・・・

この送子娘娘が観音と習合して「送子観音」となったことはスタイン、永尾氏、彌永氏とも一致した見解である。

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図220、送子娘娘

とあるように、図にあるような子を抱く女神がすでに存在していたところに、観音と習合して送子観音という観音への信仰が誕生していたのです。

 

若桑氏はこの本の中で、「観音をマリアに見立てて拝んだ」という通説を疑問視し、隠れキリシタンたちがどのような過程を経て観音像を崇拝対象とするに至ったかを考察しています。

若桑氏は、マリア観音を「伝統的イコン+聖母イコン=マリア観音」という図式を立てて、隠れ信者によって創造された「東アジア型聖母像」であるとしています。

マテオ・リッチが神宗皇帝と皇太后に献上した聖ルカの聖母像と、1910年に上海の役人の家で発見されたという、万暦年間にリッチ監修のもと制作された<中国風聖母子像>をあげ、聖ルカの聖母の「東洋化」がおきていると指摘しています。

 

丹羽ジャコべ(1579ー?)について、国史大辞典より

慶長六年(一六〇一)末中国布教長マテオ=リッチ(利瑪竇)の要請により在日中の巡察師バリニァーノから澳門マカオ)へ派遣され、一六〇二年に再建された同地の聖パウロ教会のために同宿の資格で聖母被昇天図と一万一千人乙女殉教者図を描く。同年七月、マヌエル=ディアス司祭とともに澳門から水路北京着、翌年のキリスト降誕祭に聖母子像を描きリッチから明万暦帝へ献上される。

実際にどのような絵が献上されたのかは不明ですが、作例を一つ見つけましたのでここにあげておきます。

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ヤコブ丹羽(丹羽ジャコベ) <救世主像> 制作年不明 東京大学総合図書館

非常に優しく穏やかな顔をされていますね。いまにもこちらを見てくれそうです。陰影が美しく、実に見事です。

この絵師によって描かれた聖母の絵が献上され、中国にはキリスト教が布教されるようになりました。

以下が、マテオ・リッチの監修のもとで描かれたとされる、上海の役人の家にあった中国風聖母子です。

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<中国風聖母子> 明代末期、フィールド美術館、シカゴ

このような中国風聖母子がマテオ・リッチの監修のもとで制作されたことについて、若桑氏は

もし偶然でないとするならば、リッチは中国の観音に似せて「東洋の聖母」を描かせたのである。その結果、中国の送子観音と中国の聖母像は、子供を抱く母の姿において合致したのである。

 と述べています。

 

なるほど、中国の送子観音と、宣教師マテオ・リッチによって持ち込まれたキリスト教聖母像が合わさってマリア観音となるべき東洋型聖母観音(とんでもないネーミングしてしまった)が作られた、という感じでしょうか。

しかし・・・この図220、一体何者なのでしょうか。若桑氏の書籍でも、よくわからないという記述を並べるばかりで、ただわかるのは16世紀頃から福建省を中心に造られたことだけでした。よく見てみると、頭髪が西洋的で、他の図版には「子を抱く聖母マリア」と名付けられた類似する立像もあります。

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Madonna and Child, 17th early-18thC 

非常によく似ていますよね。もしかして、もともとマリア像として福建省の港を行き来する宣教師やクリスチャンたちに向けて製造したものであって、娘娘神は観音との習合以前にすでに聖母マリアとの習合をしていた、なんてことには・・・ならないですかね?

 

ここまでお読みいただきありがとうございました。次回はさらに他の文献も借りてこようかと思います。

 

<参考文献>

国史大辞典』吉川弘文館、1979〜1997年

速水侑『民衆宗教史叢書 第七巻 観音信仰』雄山閣、1983年

John Ayers "Blanc De Chine -Divine Images In Porcelain" Art Media Resources,Ltd. 2002

若桑みどり聖母像の到来』青土社、2008年

 

*1:『観音経』とは、『妙法蓮華経』「観世音菩薩普門品第二十五」のこと。