たまには卒論焼こう
こんにちは。卒論を焼きにきました。
ようやく参考文献借りられましたよ〜私ってばえらい。
前回は若桑氏の東洋型マリア論について引用アンド引用して終わった気がします。
今回は若桑氏の参考文献から彌永氏の『観音変容譚』と、『宋代南海貿易史研究』を借りてきたので読んでみようと思います。
まずは観音変容譚から。
中国や日本では観音菩薩が一般的に(俗信的に)女性神として信じられていますが、その通念がいつ頃生まれ、その信仰内容がどのようなものであったかについて述べられています。
聖母マリア像に似た形の観音像について、
こうした聖母マリアに似た形の観音像は、中国では、一五八三年の段階で、イエズス会士として初めて中国に入ったマッテオ・リッチによって報告されているし、またそれより以前、一五四八年に、マラッカに流れ着いた日本人ヤジロウ(アンジロウともいう)の口述に基づいてフランシスコ・ザビエルのもとにいたイエズス会士、ニコラオ・ランチロットが作成した「日本事情報告書」にも、
「彼ら〔日本人〕はまた、私たちの処女マリア la vergine maria のような子供を腕に抱き、彩色された婦人〔像〕を持っている。これはクヮンノン quamn[on]と呼ばれ、私たちの聖母と同じように、どのような不幸のさいにも、普く守護してくれる者 adbocata general とされている。」
という記載が残されている。これは、ザビエルが日本に向けて出発する以前に書かれ、ローマに送られた報告書で、ヨーロッパにおける日本に関するまとまった文献としては最古のものだが、それはまた、たまたま、嬰児を抱いた女性の形の観音像の存在を確実に証する最古の文献でもあると思われる。
とあります。「彩色された」観音像ですか・・・。いまのところ、日本で子供を抱いた観音像はあまり作例を見たことがないのですが・・・ヌン・・・
こうした記録から見て、嬰児を抱いた磁器製の観音像は、遅くとも16世紀前半から中国で造られ、もしかするとそれよりさらに百数十年以前から作られていた可能性もある、と言えるだろう。
ところで、この種の観音像とほぼ同じ形の女神像は、中国では娘娘神と習合し(あるいは混同されて)、「送子娘娘」、すなわち子宝を授ける女神として信仰されていた。
娘娘(ニャンニャン)というのは一般的に女神を表す呼び名です。
観音さんを女神とみる中国の人びとのあいだでは、観音娘娘というよび方もあったそうですが、現在の台湾の多くの人たちは観音に母親という意味の媽という字をつけて観音媽(クワンインマ)と呼ぶのが普通だそうです。*1
この形の観音の図像には、文献的な典拠は存在しないようである。しかしそれが観音を、子宝を授け、または子育てを援助する女性神として崇める信仰に基づいたものであることは、言うまでもないだろう。図像的に見るなら、東アジアの仏教信仰圏における子供を抱く女性神像の原型は、明らかにハーリーティーに遡ると考えられる。
中国で造られた子供を抱く観音像は、図像的には、基本的に鬼子母神の図像の影響を出発点として創案されたと考えられるだろう。
また、以上の立体造形(白磁像、彫像)以外の絵画的表現においては「白衣大士」、「送子観音」、あるいは単に「観音」と呼ばれる形が広く普及していたそうです。
これは海中の岩山の上に、明らかに女性として描かれた観音が白く広いヴェール状の頭巾を被り、白い衣服をまとって、ややうつむいて瞑想に耽ける様子が描かれるものである。その脇(または両手)には澡瓶と楊柳が配され、また背後には竹などの南方的な植物や鳩、満月などが配されて、異国的かつ夢想的な雰囲気が醸し出される。中には、この形の観音が嬰児を抱いた図もあるが、これはおそらく相当に後期のものだろうという。また、この形の観音も、善財童子と龍女に囲まれていることがある。
この記述は徳化窯の白磁観音坐像とほぼ同じですね。彌永氏は、この図像が作られる背景に、4つの要素が混同されていると考えます。その要素は、以下のように挙げられます。
〔1〕「居士」としての「白衣」
彌永氏は
第一に、「白衣」という語は、一般に、僧、修行者の衣を指す「染衣(ぜんね)」の反対語で、インドの在家の人の衣服、または在家の人自身を意味するauadata-uasanaの訳語として用いられる。
と述べ、「白衣大士」像の特徴である白い大きな頭巾と衣は居士(在家でありながら修行する徳の高い男子)を表現していると考えます。
居士を意味する白衣でしたが、一方で観音菩薩に近い女性尊格(または観音の女性化身の一形態)であるパンダラヴァーシニーPandaravasini尊の名前の訳語としても用いられており、他にも「白処菩薩」「白住処菩薩」とも訳されます。
白衣観音に関しては前々回あたりでも紹介していましたね、そういえば。
『大日経疏』巻第五と第十では、「観音母」「蓮華部母」「諸仏を生ずる」との記述があることから一種の仏母としての「母性」が強調されていることに彌永氏は注目します。
私も注目したもん。
〔3〕『陀羅尼雑集』/『請観世音消伏毒害陀羅尼呪経』の「白衣観音」
在家の白衣と、女神としての「白衣観音(母)」をあげましたが、既に述べた女神としての白衣観音(母)とは別に、もう1人の「白い衣を着けた観世音」がまた存在するのです。
これは梁代(五〇二〜五五七年)失訳と伝えられる古い陀羅尼の集成『陀羅尼雑集』に収録された「観世音菩薩説焼華応現得願陀羅尼」と「観世音現身施種種願除一切病陀羅尼」に現われる観音の形で、
身には白衣を着け蓮華座上に坐して一手に蓮華を持ち、もう一手には澡瓶を提げ、髪を高く結う
と記述されている。
この経典の時代にはまだ観音を取り巻く女性尊格の群れはまだ形成されておらず、これは普通の、修行僧の姿をした男神としての観音であると彌永氏は考えます。
〔4〕『華厳経』による「水月観音」/禅寺の衆寮の「栴壇林の観音大士」像
在家、女神、男神ときて最後は「水月観音」です。これは『華厳経』の善財童子と観音菩薩の出会いの場面の記述に基づいて、密教のような厳格な規定とは異なる自由な発想のもとに描かれた図柄です。
南方普陀落山の豊饒な自然に囲まれた異国的・瞑想的な観音の姿は、中国以東の仏教における観音のイメージのもっとも重要な源泉の一つになったと思われる。
と彌永氏は述べます。
これらの観音像は、頻繁に顎髭や口髭を生やしており、明らかに男性が意識されていたことが分かる。片手に澡瓶を持ち、もう一方に楊柳を持つことは後の「白衣大士」と同じだが、身体には美しい瓔珞などを帯び、衣服も赤い布を使うなど貴族の装いで、「白衣」ではない。異国的な情景の中に、蓮池の巌の上に半跏して坐し、背景には竹や棕櫚竹などが描かれている。最大の特徴は、巨大な円光に包まれていることである。
・・・
一方、この水月観音の図は、十世紀ころから、先の『陀羅尼雑集』に記された「白衣をまとった観世音菩薩」の図像や、「居士」を表すものとしての「白衣」の語義に影響され、またおそらく当時の女性のかぶりものの形に基づいて、「白衣」の観音に形を変えていく。この形の「白衣観音」は相当明らかに女性と意識されていたと考えてよさそうである。
牧谿筆の「観音猿鶴図」は現存この種の観音としてはもっとも古いものと言われているそうです。以下に東博所蔵、横山大観模の「観音猿鶴図」を見られる東博画像検索のページリンクを貼っておきます。著作権とかアレなんでリンクで見ちくり〜^^
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0005159
さらに、禅寺の衆寮(掛塔(けた)=入門する修行僧の受付をする場所)の中央に南面する観音龕(神棚みたいなもの)には「栴壇林の観音大士」像が飾られていたそうです。
栴檀林(せんだんりん)というのは、栴檀=白檀の林であり、転じて、仏学研鑚の道場、学舎をいいます。*2
菩薩道を追求して多くの「善知識」をめぐる『華厳経』の善財童子が、南海のポータラカ山の観音菩薩を訪れる場面を描いたこの図像が、修行僧が入門の許しを得るために訪れる衆寮の本尊として祀られることは、非常に自然なことだろう。しかし、白衣観音像が禅寺のこの場所に祀られたということは、この白衣観音が、蓮華部の部母としての、すなわち女神としての白衣(白処)観音(母)と混同されていた可能性を示唆するとも考えられる。というのは、この白衣観音(母)は、何よりも「そこからあらゆる仏陀が生まれるところの」清純なる菩提心を象徴するものであり、禅寺に入門する者はこの場所でその菩提心を発すると考えられるからである。この形の観音像が、女性的に表現されたことも、それが白衣(白処)観音(母)と混同されたためと考えられるかもしれない。
こういった白衣観音が、のちに送子娘娘との習合を果たし送子観音として民間に信仰されていくとも彌永氏は述べます。
以上の4つの観音、在家、女神、男神、そして善財童子と出会う観音菩薩が複雑に混同された結果、白衣観音(母)なる形がつくられた、と考えてよいでしょう。
なかなかに長くなってしまいました。ここまでお読みくださりありがとうございました。
次回こそ『宋代南海貿易史研究』読みますぞ〜
<参考文献>
『例文 仏教語大辞典』小学館、1997年