卒論 on the fire

こんにちは。卒論を焼きにきました。

前回までで何朝宗の作品は大体見終えた感じですね。ハッキリと何朝宗の作であるとわかっているものは案外少ないのです。

一旦ディスクリプションは終わりにして、ちょっと違うことをしてみましょうか。

8月頃、いろんな本を借りてきては引用して・・・という作業をしていたので、その辺の整理をしてみます。

まず彌永氏。白衣大士や白衣観音と呼ばれる図像と、その背景に交わる四つの要素について引用しました。

〔1〕「居士」としての「白衣」

〔2〕密教の「白衣観自在母=白衣観音

〔3〕『陀羅尼雑集』/『請観世音消伏毒害陀羅尼呪経』の「白衣観音

〔4〕『華厳経』による「水月観音」/禅寺の衆寮の「栴壇林の観音大士」像

といった要素が複雑に絡み合うことで、現在の白衣観音(母)に至っている、という感じです。

続いて若桑氏。中国の人々が観音像をマリアに見立て、代わりとして拝んだのではなく、それはすでに東洋型のマリア像であったのだ、という論を紹介しました。

若桑説によるとマテオ・リッチが万暦年間(1572ー1620)に東洋型マリア像を監修したとみられる証拠が挙げられており、その頃にマリア像と東洋の合体が起きていたことになります。

さて、ここで一つ年表を作ってみました。

 

1563年、月港(徳化窯に近い貿易港)開港

1583年、イエズス会宣教師マテオ・リッチ 中国に渡る

1603年、カトリックの教義を漢文で書いた『天主実義』を著す

      儒教と天主教の一致を前面に押し出す戦略

      →新儒教として受け入れられ、1650年には15万人の信徒がいた

1664年、清朝による完全禁輸

1717年、康熙帝の宣教師追放令(1717年

1722年、雍正帝の即位と同時に天主教は厳禁

1843年、フランスとの条約が締結され、近代におけるプロテスタントキリスト教の布教が始まるまで天主教は地下に潜ることとなった。

雍正帝は自ら禅を提唱する仏教の篤信者であり、 *1

      →当時の明の中心的思想は禅宗である。

 

いろんなことが起きてたんですねぇ。

1717年、なんと宣教師が追放されてしまいます。なんでもローマ教皇が中国の祖先崇拝を禁止しようとしたことによる反発の結果だとどこかで読んだ気がします。中国の祖先崇拝は非常に根強く伝統的なものですから、廃止なんてとんでもない。

この頃までの100年ほどで天主教は広まりを見せ、若桑氏の主張によれば東洋的な聖母像が様々な形で出現していてもおかしくはないでしょう。つまり陶磁器の東洋的マリア像があってもいいのではないか、ということです。がしかし、子を抱いたマリア的観音像が見受けられるようになるのはある程度時代がくだってからで、それまでは西洋的な聖母子像しか見つけることが今の所できていません。こんな感じ。

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西洋的聖母子像


しかもこの西洋的聖母子像が作られた時期がなんと禁輸期に入っている可能性があるのです。つまり海外向けでなく国内向け製品である可能性が高い。つまり、少なくとも陶磁器製品においては、若桑説は成り立たないということが言えるでしょう。

さて、今回はこの辺で終わりにして、次回からはディスクリプションの続きをしましょうかね〜。ここまでお読みいただきありがとうございました!

 

参考文献

若桑みどり聖母像の到来』青土社、2008年

西村玲「虚空と天主:中国・明末仏教のキリスト教批判」『宗教研究 84巻3号』2010年、p661-681

彌永信美『観音変容譚』法蔵館、2012年

*1:西村