院に行かせろ
こんにちは。もう卒論は燃えカスになりました。元からカスみてぇな卒論だったのですが。
今回から院試に向けて頑張っていこうと思います。一番頑張らなきゃいけないのは書類提出ですね、ああ怖い。
院試は大体が論述で、他に漢文・英語と作品クイズみたいなものがあります。作品の写真が出てきて、題名と時代、作者を答えるのです。無理です。4年間で学んだことなど忘却の彼方ですし・・・
というわけで今回は作品の紹介でもしてみよっかなー!て感じです!ゆるく読んでってください💕
フワ〜オ
『釈迦金棺出現図』/11世紀後半/絹本着色/160×229.5cm/京都国立博物館所蔵
めちゃでかいですね。
こっちの方が見やすいかも。11世紀後半ということですから、平安時代ですね。あんまり平安感なくないですか?気のせい?
中央にお釈迦様がむくりと起き上がって合掌している様子が描かれ、光背が丸く大きく描かれているのが特徴的です。光背の中にはいくつもの化仏が見えますね。釈迦の右下には釈迦の母である摩耶夫人が描かれています。そのほかの人物や動物も、釈迦の方を向き驚いた様子です。それもそのはず、こちらは摩訶摩耶経のワンシーンでして、釈迦の入滅を聞き駆けつけた摩耶夫人が釈迦の鉢と錫杖を持って泣いているその時、釈迦は大神通力をもって棺の蓋を開けて半身を起こし、この世の無常を説いた後再び棺の蓋を閉じた、というのです。人物や背景を描く墨の線が繊細かつダイナミックでとても美しいですね。これはぜひ実物を見てみたいものです。
次行きましょ〜
平安時代・12世紀/絹本着色/縦159.1×横74.5cm/東京国立博物館所蔵
『法華経』という経典には、普賢菩薩がこの悪がはびこる世の中で仏の教えを受け取り持つ善き男女を守護することを誓う場面が描かれています。男女、というのがポイントでした、法華経にはそれまで成仏ができるとは説かれてこなかった女性や悪人まで平等に成仏ができることが説かれているのです。以下引用です。
以上文化遺産オンラインからの引用でした。つまり、普賢菩薩は法華経を守るお方なのです。法華経は命の平等を説く経典でして、平安時代かなり人気(特に女性)を集めました。それゆえ、女性からのあつい支持があったのが普賢菩薩さまであります。そこでこの作品をご覧ください。天蓋とそこからひらひらと舞う花、そして白い象に乗る普賢菩薩が、金箔や銀箔を細く切って線を描く切金(きりかね)などの技法を用いて、繊細かつ優美に描かれています。真っ白な肌かと思いきや、よく見るとうっすらとピンクみがかっているのがお分かりいただけますでしょうか?こうした柔らかな表現が美しくも儚く、平安時代最高峰の仏画と言っても良いでしょう。
同じ平安時代の絵画でも、こうも違うと本当に面白いですね!私は金棺出現図の方が好きです。ドン!!て感じが。
では今回はこの辺で。ここまでお読みいただきありがとうございました!
また次回もよろしくお願いします。
参考文献
山下裕二監修『やさしい日本絵画』2020年3月、朝日新聞出版
国立博物館所蔵品統合検索システムColBase
https://colbase.nich.go.jp/collection_items/kyohaku/A甲373?locale=ja
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京都国立博物館データベース
https://www.kyohaku.go.jp/jp/syuzou/meihin/butsuga/item01.html
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https://www.nhk.or.jp/meicho/famousbook/75_hokekyou/index.html
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文化遺産オンライン
版経断簡「妙法蓮華経普賢菩薩勧発品第二十八」 文化遺産オンライン
12/25アクセス
卒論焼滅
こんにちは。卒論を焼きにきました。
もう終わったというか終われ。
おわりにを書いたので載せておきます。
おわりに
白衣観音というのは、白衣を纏った観音のことである。中国において北宋末、南宋初期つまり12世紀頃には独立の信仰とイメージが存在しており、そこから500年近く時を経て、突如として徳化窯にて白磁製の像が造られるようになった。その500年の間に、女性的な性質の付加がなされ、聖母としての観音・白衣観音という存在へと変化していった。そして17世紀初頭あたりから突如として、白磁製の白衣観音像が徳化窯から現れたのである。徳化窯は宋代に始まり、明代中頃から現在の象牙のような白磁製品を作るようになった。主に家庭や小さな寺院の廟に供えるための道具、人物像を生産し、中でも観音像が優れていることは様々な文献に記されている。徳化窯における白磁観音像は、大小様々であり、その姿かたちも、ただ多くのものが頭の上から布を被っているというだけで様々である。しかし何朝宗印のある作品は最初期にして最高峰のクオリティのものであり、その後の白磁観音像の顔立ちや姿かたちに多大なる影響を与えたと考えられる。日本において、白衣観音は平安時代に密教的存在として中国から輸入され、その後禅の世界で描かれるようになった。白磁観音像は、子安観音として輸入されたのみならず、マリア観音としても輸入された。それは隠れキリシタンたちが聖母マリアに見立てるための観音である。子安・マリアともに多くは子を抱く形である。日中に通ずる安産への願いから、そして聖母という存在への強い信仰から、子を抱く形が望まれたのではないかと考えられる。それは新たな東洋型聖母の誕生である、と言えるだろう。
白磁観音像は、白衣というただ纏う布の色のみならず、観音という存在の清らかさ、慈悲深さ、聖性のような、根本的性質を包括した色である「白」を白磁によって表したものである。ガラス質の艶と奥行き、陰影の色合い、反射して映しあう光といった、絵画では表現できないものが、白磁には確かにある。白磁は、白衣観音におけるひとつの属性といってもよいのではないだろうか。そう考えたとき、白磁観音像とは一つの完成した世界であり、そこには限りのない美が存在する。それは今、我々に最も近い浄土なのではないだろうか。
ここまでお付き合いいただけたことは実に幸福なことで、感謝の気持ちを表しきれないほどである。少しでも、白磁観音像について共に見つめ、美を楽しむことができていたら幸いである。心より感謝申し上げる。
以上です。いかがでしたか?少しでも楽しい、面白い、気になると思っていただけたら、このブログをやった甲斐がありました。私自身楽しみながら卒論を書けてよかったです。ありがとうございました。修士論文では伊賀焼あたりをやろうと思ってるので、その時はまたよろしくお願いいたします。
とりあえず今回はここまで。お読みいただきありがとうございました!
卒論焼いちゃっぴ
こんにちは、卒論を焼きにきました。
前回参考文献を書き忘れていました、すみませんぬ。
では早速。
五 白衣観音と送子観音の信仰 にて、潘は、東晋、唐時代の経典から観音信仰の諸功徳のなかに、中国の伝統的な血統の継受という重要な観念と合致するものがあることについて述べ、さらに六朝、斉、唐、南斉、晋の知識人による書籍や高僧による霊験談などから観音信仰と子授けが広く深く結びついていたことについても述べます*1。以下引用です。
ここまでに考察した経典の内容、或いは提起した文書資料の中では直接に白衣観音と送子ということとの関係が結びつくことはなかったが、文献資料に見られる白衣観音像で検討した纏めで指摘したように、北宋末から南宋初期にかけて白衣観音と観音菩薩がイコールであることはすでに定着していたのであって、白衣観音と観音の子授けの信仰功徳は、極めて連想しやすく結び付きやすいものであったと考えられる。
以上のように潘は纏めています。
六 結び にて、潘は
白衣観音の図様について言えば、現存する十三世紀以前に造られた白衣観音に関する非密教系統の作品は、その制作地が宋の勢力範囲の及んだ地域内であり、一方、密教系統と認められる作品の制作地は、他民族の支配した地域であると大きく分けることができる。この非密教系の作品とは、その背景に水辺の自然景物が表出されたものであり、これは即ち、敦煌文書P・三九二七啓請白衣観自在文に述べられている白衣観音が居住する補陀落山の情景が表現されたのである。要するに白衣観音は、密教経典に記された内容からの影響を受けて、頭か宝冠から帛を被り、白衣を着るという造形がその特徴の一つであると考えられる。
と述べます。
ここから考えられるのは、宋の勢力範囲の及んだ地域内にあった徳化窯の白衣観音は非密教系の図像である、ということでしょう。確かに、浄瓶を配していたり、巌の上に座していたりと、非密教系の図像を反映した情景と、頭の上から布を被り白衣としての白磁という特徴が合致しているように思えます。
次回はまた別の論文も読んでみようと思います。
ここまでお読みいただきありがとうございました。また次回もよろしくお願いいたします!
参考文献
潘亮文(1997)「白衣観音像についての一考察」、『佛教藝術』231、p.105-137、佛教藝術學會.
*1:潘 p130-132
卒論焼いてもいいかな
こんにちは。卒論を焼きにきました。
白衣観音に関しまして、「白衣観音像についての一考察」という論文を雑誌から発見いたしましたので、いくつか引用してみたいと思います。
まず白衣観音信仰の成立時期に関して、文献資料に見られる白衣観音という項で筆者潘亮文は
換言すれば、十世紀半ば頃、中国の北方においては白衣観音信仰がすでに成立していたと考えられる。
と述べています。
一方南方(こっちが重要!徳化県は中国南方なので)において、白衣観音の信仰と民間説話、民間伝説が結びついた発端は、呉越国王である銭忠懿(九四七〜九七八在位)のエピソードと関わりがあると潘は考えました。
潘は『咸淳臨安志』巻第八十、上天竺霊感観音寺の項からの引用を元に、
ここに述べられた呉越国王の夢に出現した白衣人が観音であることは明確に書かれてはいないが、この文の内容の前後関係から考慮すると、これは観音が白衣を着用した姿で現れたのであろうと想像できる。
と述べます。また白衣と観音の結びつきの発端がどこにあるかと考えたとき、同じく『咸淳臨安志』巻第八十一、観音法済院の項にその答えを求めることができると潘は述べています。以下引用です。
即ちそこには、「天福(九三六〜九四三)間呉越王建舊名観音 治平二年改今額 燬於 建炎(一一二七〜一一三〇)神光夜發僧於瓦礫中得白衣大士相寺以復興」とある。この資料によれば、当時の人々は白衣大士が観音であると認識していたと考えられる。また、同書巻第八十一、宝厳院のところに、「政和(一一一一〜一一一八)住山道祟夜夢白衣天人来謁始創圓通道場」と記されており、同巻の瑞像院の項にも、「淳熙十四年(一一八七)僧明祖因夢白衣大士遂建佛」という文が見られる。これらの資料によって、少なくとも北宋末から南宋初期にかけての間に白衣大士と観音がイコールであるという認識は、すでに定着していたと推定できるであろう。しかも白衣を着るということが、これらの資料の共通点の一つであると言える。白衣観音に対する独立の信仰、そのイメージはすでに存在していたとも考えられる。
中国語の引用は勘弁してほしいですわね・・・。
しかし、白衣を纏った観音というイメージが早くから存在していること、そしてやはり白衣という特徴の重要性のようなものを感じる資料ですね。
北宋末、12世紀頃から白衣大士=観音、白衣観音という認識が定着し、そこから500年のなかで民間信仰、道教との交わりを経て幼児を抱くようになったのではないでしょうか。
次回は「白衣観音と送子観音の信仰」の項を引用してみたいと思います!
ここまでお読みいただきありがとうございました!次回もまたよろしくお願いいたします。
卒論焼いちゃっていいかな
こんにちは、卒論を焼きにきました
なんかこれもうやりませんでしたっけ? まあよろしくてよ・・・
幼児を抱いた観音様です。頭の上から布を被り両肩に垂らしています。顔は彫りが浅いですがまぶたがやや厚いのとはっきり目が開いていること、口元が微笑んでいることが見て取れます。右膝を寝かせた上に幼児をすわらせ右手で支え、右足は踏み下ろして右膝の上に右手をおいています。幼児は蓮華の蕾を持ち朗らかな笑みを浮かべています。向かって左奥には浄瓶、右奥には経箱を配し、その下左側には宝珠を持った童子、右側には合掌をした童子が立っています。観音様の座る蓮華座の下には四爪の龍がおり、さらにその下には波が薄っすらと描かれています。
あ〜やってますね。貼っちゃったしそのまんまにしときます。記念にどうぞ(?)。
なんだか終わったようなので、次回からはきちんと考察したいと思います。思うだけ。イッヒヒ
ここまでお読みいただきありがとうございました!また次回もよろしくお願いいたします💓
卒論焼いちゃうもんね
こんにちは、卒論を焼きにきました。
もうしゅこしでおわゆ・・・おわ・・・
幼児を抱いた観音様です。頭の上から布を被り両肩に垂らしています。まぶたは厚く目ははっきりと開いており、口は小さめです。首には数珠、胸元には瓔珞をさげています。右膝を寝かせた上に幼児をすわらせて右手で支え、左足は踏み下ろし膝の上に左手を乗せています。幼児は蓮華のつぼみを手にしています。右手の指と幼児の頭が欠けてしまっています。また、向かって左側の童子の頭も欠けてしまっています。向かって右奥には経箱を配しており、左奥には浄瓶が配されていたと思われますが、欠けてしまっているようです。向かって左下には宝珠を捧げる童子、右には合掌する童子が立っています。観音様の座る蓮華座の下には四爪に見える龍がおり、その下には巌のような表現がなされています。
童子を抱いた観音様です。頭の上から布を被り、両肩に垂らしています。首には数珠、胸には瓔珞をさげています。顔は半分ほど汚れで覆われてしまっていますが、開かれた釣り気味の目と小さな口は見て取れます。右膝を寝かせた上に幼児をすわらせて右手で支え、左足は踏み下ろして左膝の上に左手を置いています。幼児の頭が欠けてしまっており、また左右奥には浄瓶や経箱が配されていたと思われますが、それらも欠けてしまっています。向かって左下には宝珠を捧げる童子が、右下には合掌する童子が立っています。
ここまでお読みいただきありがとうございました!また次回もよろしくお願いいたします。
卒論を焼いちゃうぞ
こんにちは、卒論を焼きにきました。
サムイ!
2人の童子を従えた観音様です。頭の上から布を被り、両肩に垂らしています。顔は汚れでよく分かりませんが、つり目であることとやや厚いまぶたは見て取れます。胸には瓔珞をさげています。おそらく半跏趺坐の上に右手のひらを上にして乗せ、左手のひらを上向けて重ねています。左手の親指は欠損してしまっているようです。左奥には浄瓶を配していますが、右奥には何を配しているのか不明です。向かって左手前の童子は宝珠もしくは薬壷をささげ、右の童子は合掌しています。一番下の台座には薄っすらと何かが描かれていますが、汚れでよく見えません。
幼児を抱いた観音様です。頭の上から布を被り両肩に垂らしています。まぶたは厚く、目は釣り気味ではっきりと開いており、口は小さくやや微笑んでいます。首に数珠、胸元に瓔珞をさげています。右膝を寝かせ、踏み下ろした左足の上に右足を乗せてその上に幼児をすわらせ、右手で支えています。幼児は蓮華のつぼみを手にしており、頭が欠けてしまっています。向かって左手前には宝珠を手にした童子が、右には合掌した童子が立っており、観音様の座る巌の下には四爪に見える龍がいます。
ここまでお読みいただきありがとうございました!また次回もよろしくお願いいたします。