卒論焼いてもいいかな

こんにちは。卒論を焼きにきました。

 

白衣観音に関しまして、「白衣観音像についての一考察」という論文を雑誌から発見いたしましたので、いくつか引用してみたいと思います。

まず白衣観音信仰の成立時期に関して、文献資料に見られる白衣観音という項で筆者潘亮文は

換言すれば、十世紀半ば頃、中国の北方においては白衣観音信仰がすでに成立していたと考えられる。

 と述べています。

一方南方(こっちが重要!徳化県は中国南方なので)において、白衣観音の信仰と民間説話、民間伝説が結びついた発端は、呉越国王である銭忠懿(九四七〜九七八在位)のエピソードと関わりがあると潘は考えました。

潘は『咸淳臨安志』巻第八十、上天竺霊感観音寺の項からの引用を元に、

ここに述べられた呉越国王の夢に出現した白衣人が観音であることは明確に書かれてはいないが、この文の内容の前後関係から考慮すると、これは観音が白衣を着用した姿で現れたのであろうと想像できる。

と述べます。また白衣と観音の結びつきの発端がどこにあるかと考えたとき、同じく『咸淳臨安志』巻第八十一、観音法済院の項にその答えを求めることができると潘は述べています。以下引用です。

即ちそこには、「天福(九三六〜九四三)間呉越王建舊名観音 治平二年改今額 燬於 建炎(一一二七〜一一三〇)神光夜發僧於瓦礫中得白衣大士相寺以復興」とある。この資料によれば、当時の人々は白衣大士が観音であると認識していたと考えられる。また、同書巻第八十一、宝厳院のところに、「政和(一一一一〜一一一八)住山道祟夜夢白衣天人来謁始創圓通道場」と記されており、同巻の瑞像院の項にも、「淳熙十四年(一一八七)僧明祖因夢白衣大士遂建佛」という文が見られる。これらの資料によって、少なくとも北宋末から南宋初期にかけての間に白衣大士と観音がイコールであるという認識は、すでに定着していたと推定できるであろう。しかも白衣を着るということが、これらの資料の共通点の一つであると言える。白衣観音に対する独立の信仰、そのイメージはすでに存在していたとも考えられる。

 中国語の引用は勘弁してほしいですわね・・・。

しかし、白衣を纏った観音というイメージが早くから存在していること、そしてやはり白衣という特徴の重要性のようなものを感じる資料ですね。

北宋末、12世紀頃から白衣大士=観音、白衣観音という認識が定着し、そこから500年のなかで民間信仰道教との交わりを経て幼児を抱くようになったのではないでしょうか。

 

次回は「白衣観音と送子観音の信仰」の項を引用してみたいと思います!

ここまでお読みいただきありがとうございました!次回もまたよろしくお願いいたします。